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遠ざかっていた山を20数年ぶりに復活させ13年。春夏秋冬、週一で一つの山だけを登っています。また封印していたクライミングを2017年春から再開。

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小笠原諸島父島 登山日記 その一 42年ぶりの小笠原諸島父島へ

今週の山行きは休みです。

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旅行で小笠原諸島の父島に行って来ます。島での滞在は3泊4日で一人旅です。

本ブログのカテゴリ(オロフレ山・来馬岳登山回数 (1) )に記述してますが、20歳~22歳直前までの1年半、放浪の旅を経験しています。

1972年(昭和47年)・・伊豆諸島八丈島で3ヶ月間生活
1972年(昭和47年)~1973年(昭和48年)・・米国から日本に返還4年後の小笠原諸島父島で6ヵ月間生活
1973年(昭和48年)・・米国から日本に返還1年後の沖縄那覇で4ヶ月間生活

42年ぶりの父島再訪になります。

以下、青春時代の旅を思い出しながらまとめてみました。
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北海道をヒッチハイクで出発。夜の青函連絡船で青森へ。夜中に国道を歩いていたらトラックが勝手に止まり乗せてくれる。

知人に会うため松島に立ち寄る。足元のキスリングが真新しい。(当時定番のカニ族スタイル)
松島2

ヒッチハイクで宇都宮まで。そこから電車で東京へ。ぐっすりと寝込んでしまい、終点で車掌に起こされたのが記憶に残っている。友人の所に寄った後、八丈島へ。

・・・・話は飛んで小笠原諸島父島

現在の父島を紹介した動画

提供:小笠原チャンネル                      

当時、撮った写真をアップしていきます。(カメラ購入が1973年(昭和48年)2月であり、それ以降の写真になります)


椿丸
                椿丸(WEBから借用)
東京竹芝桟橋から父島に向かった1972年(昭和47年)10月末は椿丸(1040t、定員263人)が44時間で運航。船倉のような客室で荒れた天候のなか、2日間必死にただ横になり、食事のときだけ起き上がっていた。夜中に「安全のため、現在エンジンを止めて流してます・・・。」というようなアナウンスがあったことを記憶しています。

島での生活が3ヶ月過ぎた1973年(昭和48年)2月に休みをもらい、京都方面へ小旅行目的で一旦島を出て、2週間後父島へ戻ったときも冬の荒天で52時間かかりました。椿丸には計3回乗ったことになります。

東京(1000km)父島の中間にある鳥島。
1973年(昭和48年)2月。船は父島に向かっている。
鳥島
このころ鳥島に対する知識や興味など無く何とも思わなかったが、現在では吉村 昭著の"漂流”が愛読書になっている(土佐の漁師長平がアホウドリを食いつないで12年間生活)。江戸時代には何隻かの船が漂着しており、島で死に絶えた者、生きて帰還した者など漂流民は何十人にもなる。かのジョン万次郎は鳥島漂着5ヶ月後、運良く米捕鯨船に救助されている。
1902年の大噴火では、アホウドリ捕獲のために移住した島民125人全員が死亡している。

現在25時間半で運航しているおがさわら丸(6,679t、定員768人)だと、鳥島は往復路共に夜中に通過するため見ることができず非常に残念でなりません。
ならば48時間で運行している貨物船共勝丸で父島に行こうと問い合わせしたら、今は旅客を乗せていない、とのことでした。

8-父島丸
           父島丸(旧浮島丸) 工事中の二見港
1973年(昭和48年)5月始めに、次の目的地沖縄に向かうため島を離れましたが、4月に就航した父島丸(2,616t、定員343人)が38時間で運行を始めていました。



9-民宿なぎや
           民宿なぎ屋 1972年(昭和47年)当時
さて、父島に降り立って最初に出会ったのが『民宿なぎ屋』のご夫婦でした。
小笠原諸島は沖縄と同じく終戦後、米軍の直接統治の下に置かれ、1968年(昭和43年)に返還されています。
ご夫婦は返還後、長崎五島列島から子供3人?(記憶が定かでない)といっしょに一家で移住して来ました。ネットで検索すると、現在父島の宿泊施設は60軒以上もあり、『民宿なぎ屋』は島一番の老舗になっているようです。

【先日、宿泊の予約電話を入れたら、経営は次男ご夫婦が引き継がれていました。、ご主人は他界され、女将さんは84歳でご健在とのことです。】

『民宿なぎ屋』に一泊し、ご主人にアルバイト先を紹介していただき、以降6ヶ月間を土建会社の昔でいう飯場(プレハブ宿舎)で生活することになります。

島に着いてすぐバイクで一周  (写真は1973年(昭和48年)2月~5月)

 野椰子の木    初寝浦     小港海岸    小学校

  海上自衛隊  旧日本軍施設   大村地区    兄島

島の中心の大村地区をGoogle Earthのストリートビューで見ると隔世の感があります。     

4-境浦の沈船
太平洋戦争で攻撃を受け座礁した境浦の沈船。現在はほとんど海面の下に朽ち果てています。


父島、母島は返還後の復興(振興)計画が始まっており、インフラ整備のため島の至る所で道路、橋、トンネル、上下水道の工事が行われていました。当時の父島島民1000人に対して工事関係者が1000人以上居たと思います。(現在の父島の人口約2000人)

5-飯場内(同宿者)
飯場(宿舎内)  私の寝床から撮ったと思う (U山さん、今では90歳~100歳?)

バイト先は大手(大阪本社)の下請けで、50~60人が2、3棟の宿舎で寝泊りです。
雇われている人たちは主に関西方面の人が多く、その筋を引退した人、刺青をもった人、小指がない人も。また能登半島から出稼ぎで来た農家の人もいました。
1972年(昭和47年)の大晦日に、普段は絶対に許されない賭場が社長黙認で開帳され、大広間に20人くらいが輪を作って博打(オイチョカブ)をやってました。千円札が何十枚も行ったり来たりで緊張感が漂っていました。私の他何人かの若者は遠巻きに見てただけです。日常では時に傷害事件などが起き、島内治安が少し悪かったように思います。
レコード大賞発表を電波不良のラジオで聴いていたような記憶が・・・。ちあきなおみの“喝采”が大賞だったのを覚えています。
テレビ電波も来てないため紅白歌合戦を一ヶ月以上経ってから録画で観たり、夜に大きな布のスクリーンを張って投影する野外映画というのもありました。
返還から4年しか経ってないためか、アメリカ的風土が色濃く残っており、小笠原高校に通う女生徒が超ミニスカートの私服で自転車通学していました。

50km離れた母島に何日間か?仕事で行きましたが、高い岩場から海を覗くとサメが泳いでいたという記憶しかありません。

すぐ隣に位置する兄島も会社の休日に、浜遊びということで船が出され上陸したことも。釣りで餌を投げ込んだ瞬間グイッと引き込まれプツンと糸が切れて終了。岩場から深い海を見ると1mくらいの魚が何十匹も泳いでいるのが見えたり、浅瀬でサンゴやタカラガイなどを採ったりして遊びました。そのタカラガイが1年半の旅から持ち帰った唯一の記念として自宅にあります。
        


10-スナック美津
                スナック美津
私は酒を飲まないので記憶に乏しいのですが、島に飲み屋は無かったと思います。一軒だけ昼間が喫茶店で夜はスナックという店が飯場(宿舎)の近くにありました。
コーヒーを飲みに「美津」に行けばいつも混んでいたのと、フォークソングの“学生街の喫茶店”が流れていたことが思い出されます。



    野生ヤギ集団のボス         野生のヤギ
当時、父島には野生化したヤギが相当数おり、集団のボスを捕まえてきて、飼い慣らそうと宿舎につないでいた猛者もいました。


20-??山
どこで撮ったのかな?向こうに沈没船が見えます。


そして
6ヶ月間暮らした父島を離れ、東京で風邪を引き、友人宅(ひと間)に一週間以上?居候。新宿歌舞伎町で、井上揚水の“夢の中へ”が、ガンガン掛かっていた記憶あり。

東京から飛行機で沖縄へ。那覇に少し居た後、八重山諸島に飛び観光

  石垣島    竹富島     西表島     与那国島
 (父島で貯めたお金が有るので石垣、与那国へ飛行機でビュンビュン)


旅の大半を過ごした八丈島、父島、沖縄を終わり、北海道に帰るべく那覇港から鹿児島へ船で出発。那覇港そばの簡易民宿石垣荘(一泊500円)の4ヶ月間暮らしで親しくなった6人が見送りに来てくれました。
那覇港


思えば、長期滞在した3ヶ所とも訪れて直ぐにアルバイト先を確保しており、生活とお金に困ることはなかったです。

沖縄ではバイト先の社長に125ccのバイクを借り、ずーっと無免許で宜野湾?嘉手納?(忘れた)の工事現場に通っていたことも。(普通免許は有り) 復帰してから1年経っても車はまだ右側通行でした。
夜間作業に入る前、すぐ目の前で東シナ海に沈む、信じられないくらいでっかく火傷しそうな夕日が今でも脳裏に焼きついています。

八丈島では島の有力者の別荘に住みながら重機を使った原野の開墾作業と自動車学校の先生。(これは年に一度東京から所轄の部署が派遣され免許取得の試験が実施されます。実技はクラウンクラスの乗用車と普通免許があれば運転を教えることが許された。島内でしか運転しないであろう中高年の生徒に自己流の運転技術を教える。2年前の18歳で普通免許を取ったばかりだったので教えられたかも)


鹿児島から列車を乗り継ぎ、九州、山陰、北陸へ。

 阿蘇草千里  長崎平和公園 山陰(車窓から) 島根出雲大社


  鳥取砂丘  石川(内灘)米軍弾薬庫跡 喫茶
鳥取砂丘のベンチで野宿していたら雷雨でびしょ濡れ。内灘の弾薬庫ドームの中で寝ていたら、おまわりさんに起こされ職務質問される。

なぜ石川県内灘の米軍弾薬跡を訪れてるのか・・・?
二十歳前後に作家五木寛之の全作品を読んでおり、その中に内灘を題材にした小説があったためです。旅に出る動機のひとつになった小説もあり、それは「青年は荒野をめざす」でした。

黒四ダム-2
富山を過ぎ、東京の友人に会うため大糸線経由で向かう途中、何故か忘れましたが信濃大町で下車し、黒部ダムに向かっています。黒四ダムを見るつもりが、立山連峰などの山並に感激したような気も・・・?

それが潜在的布石になっていたのか、地元に戻り就職してから一年後、土日の休みに暇を持て余し、山に興味を持つ。すぐに単独や個人山行に限界を感じ山岳会に入るが、10年ほどで山から離れる。それから20数年のブランクの後、健康維持のため山を復活させる。そして冬のオロフレ山を遊び場として位置づけ今に至る。
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では・・・

小笠原諸島父島 登山日記 その二に続く

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